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気ままな生活

映画、音楽、読書、美術、旅行、食などの生活。

人は、分かり合えるんでしょう?

環境の変化ーーー...結婚しても子どもができても、やっぱり「他人と分かり合う」ことの楽しさ、歓び、尊さ、かけがけのなさ、、これは一生変わらないんだなと思う。

いやむしろ、自分が親となることで他人の人生観について色々引き出せたり学んだりすることが多いので、より楽しくなったのかな。

 

人生の価値観、哲学。これがしっかりできている人の話はやっぱり面白い。

そしてその価値観がもしも自分と近ければより...「他人と分かり合う」歓びは大きくなる。

人生の楽しみの質は比べられないが、この尊さは、生涯をかけるに充分に値するものだと思う。

生き延びる強い理由のひとつだ。

 

いつも会う人でも、たまにしか飲まない人でも、年一で会うか会わないかの人でも...向かい合って話せば何かが、共通点が見えてくる。

目の前の人と何かが結びついた瞬間。後から振り返ると、どれだけ豊かな時間を過ごしたのだろうと微笑むことがある。

例え長い人生においてちっぽけな、数時間の会合にしても、忘れられない楽しさを生涯において思い出すことはありえる。

それはライブと同じだ。

限りのある、しかし余りある時間の中から僅かばかりの砂金をすくうような...その刹那の共感をお互い覚えたいがために、人は酒を飲んで、裸の自分を曝け出すんだろう。

 

人はどんな他人とでも分かり合える可能性に満ち溢れている。

出会うどんな他人にも、共通点がない人はいない。

その共感が持続すれば、友達や恋人や夫婦になるんだろう。

どんな他人とでも分かり合えることが人間の幸福でもあり、不幸な点でもある。

不幸なのは、共感は持続しないこと。

 

森達也の「A2」というドキュメンタリー映画を観る。

スクリーンの中では、オウム信者と地域住民との奇妙なふれあいが描かれている。

家の柵越しに冗談まじりに笑い合う信者と住民。人間の共感は、物理的な境界線も信仰的な境界線も軽く超える。

 

しかしその分かり合えた瞬間は持続しない。人としての芯が違いすぎるからだ。

人は他人を変えることはできない。変えられるのは自分だけ。だから、より親しい考え方を持つ他人を好む。

信者の芯は、自身が変わろうとしない限り永遠に「信者であること」なのだ。

仮にテロリストと分かり合っても彼らは自爆テロを起こすだろう。

大きく何かを変えられるわけでもないのに分かり合いを求め、ある程度まではそれが成し得られてしまう辺りに人間の不幸があるんじゃないだろうか。

 

それでも人間は他人と分かり合いたいと思うんだろう。

少なくとも僕は身近な人達と分かり合いたい。共感が持続するのは奇跡なことだと思うし、その繋がりを大事にしていきたい。大事にしてあげてほしい。

僅かばかりの砂金でもいいから、すくい上げられるような人生でありたいよ。みんなが望むこと。

 

Twitter

最近、園子温Twitterで発狂してたけどちょっと分かるな。

 

Twitterが自己顕示欲の墓場なのはTwitter始めた7年前から変わってないけど、自分自身が変わってしまって、そういう承認欲求の塊であること、そこに自分も飲み込まれている気持ち悪さに耐えられなくなる時が増えた。

 

前も書いたけど、これは世代間の違いなのかな。

 

2000年前後のインターネットとは「趣味」そのものだった。

趣味でネットするし、話題も趣味のことだらけという「仮想空間」。

人生の暇つぶしのためのツールで、そこに生活を曝け出すとか密着させるとか考えられなかった。

TwitterSNSそのものに意味を持たせるなんて考えも及ばなかった。

 

でもその頃とはインターネットの意味合いが変わってきてて、これは年寄りの考え方なんだな。

 

それでもTwitterやめられないのはなんでかって言うと、Twitter上で知り合って実際にお会いした人達と繋がっていたいから、に尽きる。

 

先日もはじめてのフォロワーさんにお会いして、それはネットなしの日常では決して出会うことのなかったであろう、しかし出会うべくして出会ったような素敵な出会いだった。

 

Twitterからリアルで知り合った方々との関係は不思議だ。実生活のことは何も知らない、なんなら顔も実名も朧げなのに、何を考えてるのかは何となく分かる節がある。喜びや悲しみを共有できる可能性に満ち溢れている。

 

すべてを知る必要は勿論ない、だけど出会った方々の生活を少しでも、元気でいるかどうかを知りたいから、そう言う意味では、SNSに生活を密着させる意味は確かにあったのだ。

 

もしもTwitterそれ自身に意味があるとしたら、それは「願い」だな。

Twitterを通して知り合った方々が満ち足りた生活を送りますように。それを追っていたい繋がっていたい。そんな願い。

絶望してくれ

子ができてから徒然思うこと。

 

最近、「豊か」という単語をよく用います。

これはやはり森達也の「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」から来ているのですが、僕が示す「豊か」とは楽しみや喜びだけでなく、哀しさや儚さなどすべて含んだ、振れ幅の広い感情のこと。

例えば極上のライブを観て映画を観て、ふと涙が流れる瞬間。その涙は喜びから?切なさから?どちらにせよ感情が振り切った瞬間。

やっぱり人生は100%楽しいだけでは乗り切れないんですね。当たり前だけど、無理して楽しさだけを追求する必要は全然ないなと思いました。

楽しければそれでいいと学生の頃は思っていて、

どんな苦難があっても最終的には楽しみが待ってるはずだと最近まで思っていて、

でも、哀しいことや切ないことがたまに訪れても、それは人生において当たり前。生きていればいいや。と、今は無理せず思えるようになれました。

子を持つまでそこに思い至らなかったもどうなんだって感じですが。。

 

僕らの住むこの世界では、喜びと悲しみが時に訪ねる。

時おり思ってもいない幸運が舞い降りるし、かと言って望んだものが手に入るわけでは決してない。

大人になってからの人生は、思い通りにいくことの方が少ない。

そんな中で喜びも悲しみもフラットに受け入れるには、どんな物事にも期待しないのが一番楽じゃないかな、と。

 

物事に希望を持つから、絶望する。

並外れた期待が裏返る時、人は時に暴走し、他人や自分の命を奪うこともある。

なんでそこまでして他人や自分の人生に期待をかけるのか。

その期待は命をかけるまでに必要?

人は期待と失望を繰り返して徐々に達観していくものですが、その失望する経験が少なくていきなり深手を負うと、暴走に至る気がするのです。

でも人生においては必ず、深い哀しみが訪れる日は来ると思います。それは人間の力を遥かに超えた理由によって。誰一人の例外もなく。

 

その来るべき時に備えて、人は常日頃から小さな孤独を、挫折を、絶望をこの胸に飼いならして生きていくべきだ。

耐え抜く力を勝ち得て、生き延びるために。誰も傷つけないために。

傷ついて失ってどん底に至ってからが、本当の喜びを見つけるためのスタートライン。

だからいい年になったらさっさと絶望してくれ!

という教育方針を述べたらさすがに拒否られました。

 

好きなものを追いかけていた「こだわり」はいつしか「呪い」に言い換えられ、日々や将来にさしたる期待は決して抱かず。

どんなに消極的で後ろ向きな生き方だと笑うなら笑え。すべては生き延びるために。

でも得てしてこの種の人間は、どんな哀しみの深みからも笑みを引き出す強さを持っているかと。

期待値低めに生きることで、小さなことで笑いあって暮らす日々が、どんなに幸福に感じられることか!

 

かと言って、表情筋死んでる子どもに育ったらイヤですよね。

子どもは子どもである内に、少しの時間でも多く屈託無い笑顔でいてほしいなと思います。

払いきれない人間の業はできる限り大人が背負うから、子どもには笑顔を失わないでいてほしい。

というドストエフスキーの願いがより実感を伴って身に染みるようになったのも、子を持つことができた幸運故か。

 

どんな絶望に浸っても、生き延びてまた笑い合いましょう。

すべての子どもたちに祝福を。

オザケン、第二子おめでとうございます◎

 

怒り

↓ネタバレです

 

 

 

 

 

 

 

 

「人を信じる」ことが映画のテーマらしいです

 

妻夫木くん‥パートナーを信じられぬまま彼が逝ってしまい、後悔を残したままエンド

→分かる

沖縄の人‥信じた兄貴分がサイコパスだった、裏切られたからぶっ殺した

→分からないけど分かる

広瀬すず‥信じるとか信じないとか関係なくレイプされ鬱になった

→?

渡辺謙親子‥渡辺謙は娘の宮崎あおいの幸せを信じられず、宮崎あおいは松ケンを信じられずに警察に通報したけど、松ケンが超いい奴だったから特にペナルティなく一家揃ってハッピーエンド

→???!??!!!!???

 

 

「人を信じる」ことを映画から学ぶなら「FAKE」を観よう。

FAKE

題名通りの佐村河内守を題材としたドキュメンタリー風フェイクドキュメンタリー‥‥で終わる作品では決してない!!

劇中で語られる言葉や挙動の一つ一つにしても何一つFAKEでないと言い切れるものがなく、僕らの生きるこの世界における「真実」とは何かを問いかけてくる恐ろしい作品だ。

 

鑑賞後に襲ってくるのも「目に映るすべてが真実ではない」「観客が10人いたら10通りの感想がある」程度の生温い余韻ではなく、劇場を出た瞬間からもう善悪の概念や世界の存在自体が疑わしくなってくる。

最早これはSF映画の領域だし、名古屋が誇るミニシアター・シネマテークの古き良き劇場の雰囲気とも素晴らしく相性が良い。

 

ご存知の通り佐村河内守と言えばFAKEの塊のような存在なのだけど、それを利用して、作中のドキュメンタリー性自体がそもそもすべて疑わしい。しかしそのFAKEを操っているのは佐村河内自身か監督か?監督と佐村河内は共犯なのか、どちらかが手玉にとっているつもりでいるのか?ではあの奥さんは?作中に出てくるテレビ局の人間も本当に局の人間なのか?そもそもあの部屋は本当?奥さんも本当に奥さん??

 

‥答えは劇中のどこを探してもないし、監督のみぞ知る。いや、監督も佐村河内の生活をどこまでカメラに映し出すことに成功しているのかも疑わしい。映画を構成する要素のまったくすべてがFAKEなのだから、本当に呆れるしかない。

 

FAKEだらけの中から真実を掴みとるように目を凝らしながら鑑賞するのも面白いのだが、途中からそれすらどうでも良くなる。だって回答がないんだから必死になっても仕方ないし。

 

つまり、これこそがリップヴァンウィンクルの花嫁で語られた「嘘の世界」そのもので、真実か嘘かどうかは結局本人にしか分かり得ないのだし、他者は目に映る世界、「こうあって欲しい現実(理想)」を疑いもなく真実だと思い込んで生きていくしかない。現実世界だって所詮そんなものだと、FAKEという題名は語ってくるようで。

 

ドキュメンタリーはフェイク。耳が聴こえないのも作曲行為も勿論全部嘘で佐村河内自身は周囲を欺いて生きていくことしかできないゴミクズ野郎だけど、腕を組んで散歩する程の奥さんとの睦まじい仲と愛情だけは真実‥

とは僕の他にも多くの観客たちが抱いた、この映画の感想の一つでしょうが、これこそが「見たい現実しか見ない」妄想そのものなんですよね。僕もこうあって欲しいのだけど、真実は誰にも分からない。

 

でもそれは映画の内容に限らず、愛情とは人間関係とは当人達だけの問題であり、他者がFAKEかどうか判定するなんておこがましいものなんだろう‥という、人との接し方そのものに立ち返る内容であるというのが、この映画の素晴らしくも恐ろしいところ。

人間は嘘をつくけど動物はFAKEではない。劇中でたった一つ真実があるとすれば、佐村河内家の愛猫だけなんですよね。

 

フェイクドキュメンタリーでありSFであり心理ホラーでもあるけど、作風はあくまでコメディタッチで会場内が爆笑する場面も数多く。

食事中に豆乳をコップ並々注いでひたすら飲む佐村河内。

「佐村河内さん、全然お食事されないですが、いつもこうなんですか?」

「あ、豆乳大好きなんです」

知るかよ!!!めっちゃ笑った。

タバコ吸いにベランダに出る時だけめっちゃ俊敏な動きになる佐村河内(日光を避けてる設定なのに‥)。

新垣氏がコメディに出てる番組を無言で凝視してる佐村河内夫妻。シュールすぎ。

「なんで家に鍵盤がないんですか?」

「‥‥家、狭いから‥」

小学生のウソかよ!!

新垣氏のサイン会の後に取材に行ったら事務所に拒否されるというオチ。(そもそも取材拒否がオチなのかもしれないけど)

 

極め付けは客人が家に来るたびに奥さんが毎回出してくるケーキで、見た目は普通だけど無駄にバリュエーションがあり最終的にケーキの箱が出てくるたびに笑ってしまう。どこの店なんだ‥

 

「マスコミの報道を鵜呑みにして佐村河内を叩いてた人は愚かだというけど、ドキュメンタリー映画一本観てすべて鵜呑みにするのも同じように愚かだよね」

がこのFAKEのそもそもの始まりだと思うけど、じゃあ例えば今年のしくじり先生組、ベッキーやファンキーな加藤や舛添旧都知事が仮にプライドを捨ててこういうフェイクドキュメンタリーを作ったら全く同じものが仕上がるのか、と言ったらそうではないよね。

佐村河内氏は耳が聴こえないという本人が覆さない設定があり、劇中でも「耳がどの程度まで聴こえないのかは本人しか分からない」という診断があるけど、これがそのまま映画の内容になっている。僕もやや難聴気味で、どの音がどの程度まで聴こえるのか‥はそれこそ妻にすら説明できないので問題の根の深さが分かるし、聴力はじめ、真実か嘘かは結局本人だけの問題なんだよ。

 

何をFAKEとし、何を、誰を真実とするかを選択し続けることで人間関係は決まるし、人生はそんな選択の連続だ。

生きる上で重要なことはFAKEかどうかではなく、人生において何を真実とするという選択をするか‥そんな映画だったんじゃないかな。

真意も分からないし底が深すぎる、何とも意地の悪い映画だけど、これほど視点の多様性がある「面白い」映画は初めてだったんじゃないか。

連日観客が満入りなのも納得できる問題作だった。

日本で一番悪い奴ら

「凶悪」のピエール兄貴の「ぶっこむぞ!!」で一躍有名になった白石監督の新作は、ウルフオブ北海道警察(このキャッチコピー気に入った)。

警察を舞台にセックス!ドラッグ!マネー!をやり切った青春ギャング映画。

 

暴力を不快なシーンとして撮るか、それともユニークを交えるかは監督次第ですが、僕は後者の方が余裕があって好きです。

前者の乾き。とかヒメアノ〜ルとかはどうもイマイチで、このジャンルならやはり子温と白石監督が頭一つ抜き出てる印象。

 

殴ったり殴られたりしてるだけで笑っちゃうってのはセンス要ると思うんですよやっぱり。

瀧のアドバイス後、いきなり豹変してぶっこみカマす綾野のスピード感に笑っちゃうし、そもそも瀧の一挙一動が前作を彷彿とさせて笑うし(第一何一つ警官に見えない)、獅童とタイマンでメンチ切らしながらお茶吹く綾野に笑ってしまうし。前半はとにかくテンポ良いコントのようで最高。パキスタン人のカタコトも卑怯すぎ。「イトコウル?」

 

中盤、悪たれ4人が集結すると青春モノとしての魅力も加速。すすきのだけに食事シーンもちょいちょい美味しそうなのが挟まれるんだけど、特にカニを炙るシーンが意味わからなくて最強。

 

ただ後半、綾野チームが凋落してくるとコント的描写にも余裕がなくなってきて、途端にテンポ悪く感じるのが惜しい。クズが落ちぶれていくのに哀愁を交える必要もないと思うのだけどな。でもこの手の映画を観ると大抵ウォールストリートと比較するのが多分良くなくて、あの映画の娯楽としてのバランス感覚が出来すぎてるんだろうな、、

 

街中や人物の描写が全然80年代じゃないどころか、方言も全く出てこない辺り現地の人が見てどう思うのかは謎だけど、総合的には和製スコセッシとして面白かったし、白石監督、まだまだ期待すべき監督だと思いました。

友だちの恋人

ウディ・アレンの多くの映画の元ネタのような、男女4人のオシャレな恋愛ゲーム。

 

要は彼氏彼女を取っ替えるというだけの話で深い内容もないが、緑の光線やポーリーヌと違い街中での話がメインであるため、街並みだけでもいちいちオシャレだ。ファッションや建物を観ているだけでも楽しい、80'仏のセンスを垣間見ることができる映画。

 

何も特殊な容姿や才能を持ってなくても、人は自分と似た感性の異性に惹かれあい恋に落ちることがあるんだよ、という内容。ちょっとキャリー・マリガンに似た内気気味なブランシュが可愛らしい。