気ままな生活

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FAKE

題名通りの佐村河内守を題材としたドキュメンタリー風フェイクドキュメンタリー‥‥で終わる作品では決してない!!

劇中で語られる言葉や挙動の一つ一つにしても何一つFAKEでないと言い切れるものがなく、僕らの生きるこの世界における「真実」とは何かを問いかけてくる恐ろしい作品だ。

 

鑑賞後に襲ってくるのも「目に映るすべてが真実ではない」「観客が10人いたら10通りの感想がある」程度の生温い余韻ではなく、劇場を出た瞬間からもう善悪の概念や世界の存在自体が疑わしくなってくる。

最早これはSF映画の領域だし、名古屋が誇るミニシアター・シネマテークの古き良き劇場の雰囲気とも素晴らしく相性が良い。

 

ご存知の通り佐村河内守と言えばFAKEの塊のような存在なのだけど、それを利用して、作中のドキュメンタリー性自体がそもそもすべて疑わしい。しかしそのFAKEを操っているのは佐村河内自身か監督か?監督と佐村河内は共犯なのか、どちらかが手玉にとっているつもりでいるのか?ではあの奥さんは?作中に出てくるテレビ局の人間も本当に局の人間なのか?そもそもあの部屋は本当?奥さんも本当に奥さん??

 

‥答えは劇中のどこを探してもないし、監督のみぞ知る。いや、監督も佐村河内の生活をどこまでカメラに映し出すことに成功しているのかも疑わしい。映画を構成する要素のまったくすべてがFAKEなのだから、本当に呆れるしかない。

 

FAKEだらけの中から真実を掴みとるように目を凝らしながら鑑賞するのも面白いのだが、途中からそれすらどうでも良くなる。だって回答がないんだから必死になっても仕方ないし。

 

つまり、これこそがリップヴァンウィンクルの花嫁で語られた「嘘の世界」そのもので、真実か嘘かどうかは結局本人にしか分かり得ないのだし、他者は目に映る世界、「こうあって欲しい現実(理想)」を疑いもなく真実だと思い込んで生きていくしかない。現実世界だって所詮そんなものだと、FAKEという題名は語ってくるようで。

 

ドキュメンタリーはフェイク。耳が聴こえないのも作曲行為も勿論全部嘘で佐村河内自身は周囲を欺いて生きていくことしかできないゴミクズ野郎だけど、腕を組んで散歩する程の奥さんとの睦まじい仲と愛情だけは真実‥

とは僕の他にも多くの観客たちが抱いた、この映画の感想の一つでしょうが、これこそが「見たい現実しか見ない」妄想そのものなんですよね。僕もこうあって欲しいのだけど、真実は誰にも分からない。

 

でもそれは映画の内容に限らず、愛情とは人間関係とは当人達だけの問題であり、他者がFAKEかどうか判定するなんておこがましいものなんだろう‥という、人との接し方そのものに立ち返る内容であるというのが、この映画の素晴らしくも恐ろしいところ。

人間は嘘をつくけど動物はFAKEではない。劇中でたった一つ真実があるとすれば、佐村河内家の愛猫だけなんですよね。

 

フェイクドキュメンタリーでありSFであり心理ホラーでもあるけど、作風はあくまでコメディタッチで会場内が爆笑する場面も数多く。

食事中に豆乳をコップ並々注いでひたすら飲む佐村河内。

「佐村河内さん、全然お食事されないですが、いつもこうなんですか?」

「あ、豆乳大好きなんです」

知るかよ!!!めっちゃ笑った。

タバコ吸いにベランダに出る時だけめっちゃ俊敏な動きになる佐村河内(日光を避けてる設定なのに‥)。

新垣氏がコメディに出てる番組を無言で凝視してる佐村河内夫妻。シュールすぎ。

「なんで家に鍵盤がないんですか?」

「‥‥家、狭いから‥」

小学生のウソかよ!!

新垣氏のサイン会の後に取材に行ったら事務所に拒否されるというオチ。(そもそも取材拒否がオチなのかもしれないけど)

 

極め付けは客人が家に来るたびに奥さんが毎回出してくるケーキで、見た目は普通だけど無駄にバリュエーションがあり最終的にケーキの箱が出てくるたびに笑ってしまう。どこの店なんだ‥

 

「マスコミの報道を鵜呑みにして佐村河内を叩いてた人は愚かだというけど、ドキュメンタリー映画一本観てすべて鵜呑みにするのも同じように愚かだよね」

がこのFAKEのそもそもの始まりだと思うけど、じゃあ例えば今年のしくじり先生組、ベッキーやファンキーな加藤や舛添旧都知事が仮にプライドを捨ててこういうフェイクドキュメンタリーを作ったら全く同じものが仕上がるのか、と言ったらそうではないよね。

佐村河内氏は耳が聴こえないという本人が覆さない設定があり、劇中でも「耳がどの程度まで聴こえないのかは本人しか分からない」という診断があるけど、これがそのまま映画の内容になっている。僕もやや難聴気味で、どの音がどの程度まで聴こえるのか‥はそれこそ妻にすら説明できないので問題の根の深さが分かるし、聴力はじめ、真実か嘘かは結局本人だけの問題なんだよ。

 

何をFAKEとし、何を、誰を真実とするかを選択し続けることで人間関係は決まるし、人生はそんな選択の連続だ。

生きる上で重要なことはFAKEかどうかではなく、人生において何を真実とするという選択をするか‥そんな映画だったんじゃないかな。

真意も分からないし底が深すぎる、何とも意地の悪い映画だけど、これほど視点の多様性がある「面白い」映画は初めてだったんじゃないか。

連日観客が満入りなのも納得できる問題作だった。