気ままな生活

映画、音楽、読書、美術、旅行、食などの生活。

絶望してくれ

子ができてから徒然思うこと。

 

最近、「豊か」という単語をよく用います。

これはやはり森達也の「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」から来ているのですが、僕が示す「豊か」とは楽しみや喜びだけでなく、哀しさや儚さなどすべて含んだ、振れ幅の広い感情のこと。

例えば極上のライブを観て映画を観て、ふと涙が流れる瞬間。その涙は喜びから?切なさから?どちらにせよ感情が振り切った瞬間。

やっぱり人生は100%楽しいだけでは乗り切れないんですね。当たり前だけど、無理して楽しさだけを追求する必要は全然ないなと思いました。

楽しければそれでいいと学生の頃は思っていて、

どんな苦難があっても最終的には楽しみが待ってるはずだと最近まで思っていて、

でも、哀しいことや切ないことがたまに訪れても、それは人生において当たり前。生きていればいいや。と、今は無理せず思えるようになれました。

子を持つまでそこに思い至らなかったもどうなんだって感じですが。。

 

僕らの住むこの世界では、喜びと悲しみが時に訪ねる。

時おり思ってもいない幸運が舞い降りるし、かと言って望んだものが手に入るわけでは決してない。

大人になってからの人生は、思い通りにいくことの方が少ない。

そんな中で喜びも悲しみもフラットに受け入れるには、どんな物事にも期待しないのが一番楽じゃないかな、と。

 

物事に希望を持つから、絶望する。

並外れた期待が裏返る時、人は時に暴走し、他人や自分の命を奪うこともある。

なんでそこまでして他人や自分の人生に期待をかけるのか。

その期待は命をかけるまでに必要?

人は期待と失望を繰り返して徐々に達観していくものですが、その失望する経験が少なくていきなり深手を負うと、暴走に至る気がするのです。

でも人生においては必ず、深い哀しみが訪れる日は来ると思います。それは人間の力を遥かに超えた理由によって。誰一人の例外もなく。

 

その来るべき時に備えて、人は常日頃から小さな孤独を、挫折を、絶望をこの胸に飼いならして生きていくべきだ。

耐え抜く力を勝ち得て、生き延びるために。誰も傷つけないために。

傷ついて失ってどん底に至ってからが、本当の喜びを見つけるためのスタートライン。

だからいい年になったらさっさと絶望してくれ!

という教育方針を述べたらさすがに拒否られました。

 

好きなものを追いかけていた「こだわり」はいつしか「呪い」に言い換えられ、日々や将来にさしたる期待は決して抱かず。

どんなに消極的で後ろ向きな生き方だと笑うなら笑え。すべては生き延びるために。

でも得てしてこの種の人間は、どんな哀しみの深みからも笑みを引き出す強さを持っているかと。

期待値低めに生きることで、小さなことで笑いあって暮らす日々が、どんなに幸福に感じられることか!

 

かと言って、表情筋死んでる子どもに育ったらイヤですよね。

子どもは子どもである内に、少しの時間でも多く屈託無い笑顔でいてほしいなと思います。

払いきれない人間の業はできる限り大人が背負うから、子どもには笑顔を失わないでいてほしい。

というドストエフスキーの願いがより実感を伴って身に染みるようになったのも、子を持つことができた幸運故か。

 

どんな絶望に浸っても、生き延びてまた笑い合いましょう。

すべての子どもたちに祝福を。

オザケン、第二子おめでとうございます◎