気ままな生活

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僕らが生きている理由について語るとき

9ヶ月の息子が今日も生きているか毎日気にしていることに今日気付いた。

 

不意にどんな災厄が襲ってくるか分からないから、仕事中も常に携帯が手元に。

と言って、息子は今のところ五体満足特に大きな病気もなく寝ていると寝相で一晩のうちに360°大回転するぐらいには元気なんだけど。ありがたいことに。

 

でも息子の命の心配は生まれてからでなくて、妊娠初期からずっと今まで継続している。気付いたら今日まで毎日。

安定期に入るまでは、入ってからも、胎児は本当に小さく儚い命。

社会を、世間を、世界を期待も信用もしていないので、このまま無事に元気に生まれてくる想像なんてしていなかった。

弱虫だから、抱いた希望が崩れ落ちる瞬間が耐えられない。

元気に生まれてきてくれて本当にありがたいけれど、それでも安心はできない。子どもと生きていくことは毎日が戦いの日々。

いやでも子どもがいなくても、独りでも生きることは戦いだろう。

 

大人でも偶然が重なった災厄で、簡単に世界からいなくなってしまう。

ヨーロッパ文化が好きなので、欧州でテロ事件が起こるたびにひっそり凹む。

マンチェスターのライブ終わりの爆発。

たまたまロンドンだっただけで、僕がどんなライブに行ってもその場に居合わせない保証なんかどこにもない。

ポールの東京公演の朝も北のミサイル報道があったから、ライブ中にミサイルが飛んできたら…なんて思ったっけ。

 

今も昔も、大人も子どもも、みんな生きているからこそ、どんな悲劇で命が失われないとも限らない。

だからいつも身近な死について準備と言うか、覚悟を持っているんだろう。

死を意識して生きることと、笑って暮らすこと。

この両者が矛盾していることとは決して思わない。

それどころか、死のない永遠の生の中で、楽しいとか悲しいとか、感情の爆発が起こりえるんだろうか。

死について語られるのは、いつだってポジティブな動機から。

いつ訪れるか分からない死という終わりについて考えるから、今を精一杯生きていく理由が生まれる。

 

 

もう一つの生きていく理由は、他者によって与えられる。

人が死の眠りについた時、身近な人達は元気だった頃の姿形を懸命に思い出そうとするだろう。

世界から見えなくなっても、人の記憶の中で、記憶から記憶へ、生き続ける。

人の記憶の一部となり、在りし日の面影が、言葉が、今も人々に影響を与え続ける。

 

この状態が完全な死とどうして言えるだろう?生と死の垣根はどこに?

違いがないどころか、僕らは今生きている人達よりも、見えなくなってしまった人達を思い、影響される時間の方が長いんじゃないか。

「人に忘れられた時が完全な死」。

 

そう考えると、生きることとは、特にその人がいなくなってしまった後に、他者が記憶することによって理由づけされることが大きいのかな。

すると、「生まれてきた意味」なんてさも主観的なようで、実は、自分の与り知らないところで語られるにすぎないのかも。

つまりは自分が生きていく理由について真面目に思い悩む暇なんて、思ったほどないと感じません?

今生きているから、今を精一杯生きるだけ。

誰かと繋がって、誰かの記憶に残り、記憶から記憶へと。

いつか動かなくなる時まで、死を迎えた後も尚。

 

 

そうか、ここでようやく前回の続きだけど、メッセージのハンナが生まれてきた理由を語るのは作中でなく、彼女の始まりと終わりを追体験して記憶に留めた、僕ら観客側なのかもしれないな。